お茶とコーヒーの日記

ゆるゆるとお茶とコーヒーについて綴っています

香典返しのお茶の悲しい話

コロナ禍が始まる前の年の話。

付き合いのあった某企業の部長さんが他界されお葬式に行きました。

盛大ではないものの、家族葬が増えている昨今にはちょっと珍しいくらいちゃんとしてました。社会人になっている娘さんと奥様が楚々とした立ち姿で弔問客を迎えていたのが印象的でした。一度だけ、ご自宅に伺ったことがあり、洋風の一軒家で奥様が出して頂いた紅茶を飲みながらしばし歓談し楽しかったことが思い出されます。部長さんもとても紳士的な人柄でした。

 

その後、香典返しをいただき「お茶」を選択しました。

残念だったのは、「そのお茶がとても不味く飲めたものではなかった事」でした。

 

ご主人が亡くなり、失意のご遺族にとっては香典返しに腐心するよりも便利なギフトカタログを利用するのは当たり前のこと。しかし、その掲載商品のお茶がひどいものでした。そう思うと、ギフトカタログの出版社にも、それを葬式のセットとして推奨する葬儀社にも無性に腹が立ったことを覚えています。何か、故人の思い出もご遺族の品格もカタログ出版社と葬儀社のコマーシャリズムによって傷つけられたような気がしたからです。

 

そう考えると、今までも香典返しのお茶を何回か飲みましたが、美味しいと思ったことは一度もないことに気づきました。

 

カタログギフトは印刷費用や配送料などがコース価格に織り込まれており、また代理店としての葬儀社のマージンを考えれば相当安い原価であろうとは想像はつきます。

しかし、カタログ出版社や葬儀社は掲載商品のお茶を飲んだことがあるのか?という素朴な疑問も湧きます。多分ないのだろうというのは私の勝手な推測です。

 

例えば、お茶の原価として500円しかかけることができないのであれば、100gで500円のお茶を提供するのではなく、50gで500円のお茶を載せるとか、25gで500円のお茶でも良いのではないでしょうか? 25gでも 10杯ちょっとは飲めます。

 

良いお茶を味わって、故人との思い出に浸りたいと私は切に思いました。

何か、最近の日本人はお茶の心というか「茶心(ちゃごころ)」がなくなっていて、とても惨めな国民になってしまったように思えるのは私だけなのでしょうか?